私が住んだ街

これまでに住んだ街、国


今思えば結構引越しをしている。まさに引っ越し貧乏極まりない。そして、1年未満が多いが、仕事で各国にも滞在している。その時々のこと等。


エチオピア国アディスアベバ市(2015年10月-2017年10月)、海外勤務のため

ヨルダン国アンマン市(2017年10月-2019年10月) 、海外勤務のため


目黒区下目黒(2012年4月から現在)

目黒競馬場の跡地にあたる土地に住むことになった。JR目黒駅からは、権之助坂を下り、目黒新橋を渡り、山手通りを渡る。そこに大鳥神社がある。そこから、かつては金毘羅坂と呼ばれた上り坂を登り切った当たり、元競馬場前になる。

この辺り、競馬場が府中へ移転した後、政府や企業へ売却され、研究j所や社宅となっていた。それらの土地が売却され、共同住宅や戸建て住宅として分譲された。


北浦和(2011年11月から2012年4月)

下目黒へ引っ越すことが決まったが、横浜の住宅を売却したので出なくてはならず、マスオさん生活。


アルメニアのエレバン、モスクワ通り (2010年2月から2011年5月)

仕事でエレバンに滞在、アパートの5階に住んだ。家賃月額USD800、1LDK+ベランダ側の書斎。輻射熱のガスによる24時間暖房は心地よかった。建物はソ連時代のもので改装済みの小奇麗なアパートだった。しかし、エレベータはソ連時代の香りたっぷりの日本では絶対にお目にかかれないものだったが、何とか動いていた。

http://armenia.iio.org.uk/


ウズベキスタンのタシケント、(2009年2月から12月)

仕事でタシケントに滞在、日本大使館に近い、そして、シャストリ像に近い通り沿いのアパートの2階に住んだ。アパートは典型的な低層、1966年の地震後に建設されたと思われる。間取りは、元々は3寝室であったと推察、2寝室へ変更、今を大き目に取ってあった。キッチンがベランダを部屋にした場所にあり、オリジナルとはかなり異なる間取りと思われた。バスルームの浴槽は三角形をしていて使い難くかった。家賃USD1300は高め。52 Sadik Azimov Street, Tashkent, Uzbekistan

http://ca.iio.org.uk/



横浜(みなとみらい夜景)

CCCC

London ロンドン(2002年9月から2003年9月)

Hampsted, Brunswick Square (Bloomsbury), Suttonと3箇所に住んだ。

Hampsteadはなかなか住まいが決まらなくそんな状況下に無理して決めた間借りだった。 それとて家賃は800ポンド(1ポンド200円の時代)だったので凄く高かった。 しばらくしてInternational Hall of Residenceが空いたと連絡があり結局ハムステッドには1ヶ月だけ住んだ。

ロンドン大学寮であるInternational HallはUCLへ徒歩で行けるBrunswick Squareにあった。 ラッセルスクエア駅(ノーザンライン)から徒歩数分の距離と交通の便も良かった。しかし、International Hallは増改築中で6ヶ月の期限付き契約という条件付、他に選択肢もないので受け入れざるを得なかった。

部屋は学生寮なのでシャワー、トイレ共同だった。シングルベッド、クロゼット、デスク、洗面台のみの機能的な作り、ただ、コートヤードが増築工事中で日中は騒音に悩まされた。契約が切れることもあり2003年4月にSuttonのフラットへ越した。今回は全住民が契約解除となり、6ヵ月後に改装後、再度公募するスケジュールだった。

サットンからUCLまではこれまでの徒歩通学ではなく鉄道通になった。SuttonからブリティッシュレイルのサウスセントラルラインでVictoria Stationまで、そして、UndergroundでGoodge Street下車、UCLまで徒歩5分であった。

Hamstead

 


横浜市港北区(1998年4月から2011年11月)


ベランダから眺めた引越し間際の外の光景、直ぐに芝生や草花は雑草に負けて雑草だらけとなった、これが自然の成り行き。。

ベランダが公開空地と称する通路側に向いていた。その先が小学校の校舎で4階建て、廊下側だった、この建物が視野を遮りかなり圧迫感があった、空が狭くなる。平日不用意にベランダに出ると子供たちがこちらを見ていることもあった。

立地は、東横線で都心へも横浜へも出やすかったが、愛着がわかずこの街はあまり好きになれなかった。鶴見川の脇という場所、横浜銀行のグラウンド跡地、河川敷だったのであろう、も好きになれなかった要因の一つだった。車でのアクセスも鶴見川の堤防道路を通らねばならなかった。しかし、裏山が大倉山で散策には丁度良いし、小学校を除けば ここは静かで暮らしやすい環境だった。

建物は低層3階建て、壁式構造、天井高2.6mと建築そのものは稀な内容であり今もって同様な物件は耳にしていない。ここでは住宅の評価について多くを学んだ。


練馬区光が丘(ゆりのき通り)(1996年から1998年4月)

美しいケヤキ並木

一度は公団住宅というところに住んでみたくて高めの家賃の抽選に応募したら当選した。世帯向けだったこともある。2LDK、58平米のアパートは広く感じた。しかし、扉や窓の規格が公団住宅規格だった。地域暖房システム(セントラルヒーティング)が完備されており、 温水はそこから供給するシステムだった。 公団、大規模開発ということもあり緑やオープンスペースは豊富で素晴らしい住環境だった。ここは元々米軍住宅であったグランドハイツ跡地。

一階が スーパーマーケット(東武ストア)他、近隣商業施設として商店街のようなお店がいくつかあったので買い物には不自由しなかった。直ぐ横のケヤキ並木は春先の新緑が美しかった。海外出張の際、ここからだとTCATへタクシーで行くのが最も早い、ルートもそうだが、早朝は池袋まではよく渋滞に巻き込まれた。家賃11.2万円。

直ぐ近くに、中華料理(芝蘭)があった、美味しかったのでよくここで食事をした。後にTVでも紹介されたほどの店だった。


世田谷区の桜新町(1990年7月から1996年7月)

八重桜並木(旧国道246号線) 同左

再就職してから1年後、通勤が比較的楽な地区を探していたらこの街に適当なアパートが見つかった。軽量鉄骨造りの2階建ての2階、部屋は6畳+3畳、風呂付き、24平米程度であった。家賃・共益費で7.2万円だっただろうか、最終的に7.7万円だった記憶。このアパート、階段に屋根がなく、玄関に庇がなかったので雨の日は困った。ここでは職に就き生活が安定したのか、なんとなくこの街には長く住んだ。

引っ越した当初、近くに銭湯があり冬場は温まるのに好都合だったが、数年で廃業、取り壊しになってしまった。直ぐ目の前が救急病院でときどき騒々しかった。

大家はこの地に大正時代に居を構えたとのこと、多分、関東大震災後であろう、当時は一面農地だった。 長く住むと荷物が増え、狭く感じるようになり、また、公団住宅に住んでみようと考えていたので引っ越した。


杉並区の高円寺(1989年6月から1990年6月)

フィラデルフィアから帰国して、職に就くためにここを借りた。なぜ、高円寺だったのかはわからない。知人が近くに住んでいたからだろうか。多分、駅までの不動産屋で安い家賃のアパートを見つけた、家賃は確か月額2.8万円だったと思う。

木造、4畳半一間、風呂なし、トイレ共同だった。荷物もなかったので4畳半といえども暮らしてみたらまあまあ快適な空間だった。それから、隣が銭湯だったのでその点は便利であった。ただし、日が当たらないし木造なので冬は寒かった。そして、再就職後も1年間この街に住んだ。 ごちゃごちゃしていて楽しい街だった。

引っ越したのは、風呂付を借りられる給料が支払われるようになったからだろう。4畳半という空間は使い勝手がよいことをここで認識した。


Philadelphia, PA, USA米国フィラデルフィア(1988年9月から1989年6月)

ニコルズハウスというキャンパス内の学生寮に米国人大学院生(物理専攻の博士課程)と一緒に住んだ。2DKのアパートでキッチン、バス、トイレをシェアした。冬場、暖房の効きが悪くやや寒い思いをした。隣のビルにプール、大学図書館は24時間オープン、朝、ビジネススクールへ行けばNY Timesが無償配布、PCルームも24時間オープン、ニコルズハウスの地下にシアターがあり毎週のように何か上映していた。米国大学生の就学環境の良さに感心した。


Lusaka, Zambia(1986年8月から1988年8月)

ルサカ市内、北朝鮮大使館の目の前にあるノースミードにある官舎に2年間住んだ。厳密には最初の4ヶ月間はJICA事務所のドミトリー暮らしだった。官舎は1LDKのフラット、英国植民地時代、もしくは独立直後に建設された3階建てのフラット、私の部屋は2階の端っこだった。


渋谷区広尾(1986年4月から7月)

JOCVの訓練期間中の3ヶ月半、この街に住んだ。隣が聖心女子大学、そして広尾ガーデンヒルズという場所だった。外国人が多い街、バブル真っ只中の時期であり、広尾ガーデンヒルズの価格が軒並み2億円を超えていた(今でも1億円以上だが)。有栖川公園、都立中央図書館、麻布界隈は散歩コースだった。


豊島区西池袋(4ヶ月居候生活)(1985年12月から1986年3月)

両国のマンションが売却されることになり、大学の同期に話をしたら大家と交渉してくれ、空いている部屋にお世話になった。池袋からも歩ける距離にあり、長島茂雄が立教の学生だった頃に遊びに来たという 歴史ある下宿屋だった。


墨田区両国(緑)(1984年10月から1985年11月)

西新井のマンションを世帯持ちへ明け渡すため、ここへ引っ越した。非常に古いビルで部屋も三角部屋があるなど使い勝手は悪かった。この辺り、相撲部屋が多く、朝、相撲取りがランニングする光景をよく見かけた。都心へは近く便利だったが、会社を辞めることになり8ヶ月程度だけこの街で暮らした。


足立区の西新井大師前(1984年10月から)

関連会社が所有しているマンションが空いているので入居しないかと誘いがあり、二子玉川からここへ引っ越した。そのマンションは、お付き合いで購入したようだ、積水不動産が開発したグランドメゾン西新井と言った。会社からはかなり遠くなった。最寄りの駅は、東武西新井大師線西新井大師駅、一駅のローカル線だ、から東武伊勢崎線西新井駅で乗り換え、北千住で千代田線に乗り換え、日比谷で下車、有楽町線有楽町まで歩いて麹町で降りて、会社まで歩いた。千代田線の乗車率が300%とものすごく混雑する路線で閉口した。時々、晴海通りから新宿駅行きのバスに乗って麹町で降りたり、その逆で、麹町から歩いた。

このマンション、新築だったが、あるとき天井のクロスに水が溜まっているのを発見、漏水だった。3LDKの間取りだったので基本的に3人入居したことになっているが、他の二人は派遣されていたため、ほとんど留守、実質一人で暮らしていた。そのうちの一人は、荷物もほとんどなかった。現場代理人の仕事は、住まいが落ち着かないようだった。

このとき、同居の同僚から電話の権利を購入した。6万円だった。


世田谷区の二子玉川園前(1983年4月から1984年9月)

就職したとき、麹町の事務所に通うために半蔵門線一本で行けるこの街に決めた。当時は半蔵門駅が終点だった。木造2階建て、6畳一間、トイレ共同、風呂なし。大家の職業は川魚漁師だった。その頃でもそんな職業が成立していることに驚いた。当時はまだ高島屋が改装される前であり、今よりも静かだった。駅から徒歩10分ちょっとだったと思う、途中に銭湯があった。

おしゃれな街過ぎて普段の食事に苦労した。河岸段丘の上が瀬田や岡本で、雰囲気がよかった。将来的には暮らしても良いと思った街だった。


神奈川県藤沢市(1979年4月から1983年3月)

学生時代をこの街で暮した。江ノ島、鎌倉など湘南へよくバイクを飛ばした。最初は2階建て住宅の2階に間借りをしていたが、窮屈なので1年でアパートへ移った。大家は、いすゞに勤務していて、タイに駐在したことがあり、そのときに購入したというマホガニーだろうか、木製の食卓があり、そこで大家と話をした。

近くに築後2年目の2階建て木造アパートがあり、空いていたので住むことにした。学生としては多分贅沢なアパートだろう、1DK、6畳+4.5畳、風呂付、家賃2.8万円の1階に住んだ。当時としては風呂付はかなり背伸びしたが、快適だった。冷房はなかったが、水を循環させるファン付きの冷房もどきが付いていた。

玄関の前にバイクを置いていたにもかかわらず、アパート入口から2件目ということもあり、部品の盗難に何度もあった。表側はお寺で墓が目の前にあった。それで若干安かったのだろうか。

 


愛知県海部郡育ち

愛知県津島市生まれ


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