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Calcutta (Kolkata), India

歓喜の街カルカッタへ 1991年9月

1991年の秋、インドのカルカッタ(現在のコルカタ)へ出張した。バンコクで一泊し、翌日、タイ航空でカルカッタへ入った。日本からだとこれが一番楽なのだろう。バンコクからカルカッタへのフライト時間はわずか2時間半だが、到着して先ず感じたことはこの時間距離以上の距離を感じたことだった。

Calcutta01 02 03 | New Delhi | Gallery Calcutta 1991

カルカッタ、初インド-1991年9月

カルカッタへ着陸する直前、窓からガンジスデルタが望めた。ここからカルカッタはそう遠くはないのだろう、機体が降下し始めていた。

calcutta西ベンガル州の州都カルカッタ空港へ着き、車輪がかろうじて付いているカートへ荷物を載せ空港の外へ出るとバクシーシ(施し)の連呼が待ち構えていた。それを無視して迎えのインド製アンバサダーという名前負けしているが愛らしい型の車に乗り込み市内のホテルへ向った。

カルカッタは、元英国領インドの首都、歴史の重さに耐えられないような街の表情、混沌としているがバンコクのそれとは違う何かがありそうな印象だった。

フォトギャラリーカルカッタ1991

1991年、カルカッタです。お天気が良くありませんが、リアル・カルカッタです。当時、フーグリー橋は建設中、地下鉄は一部運営を開始していたが建設中だった。工法はオープンカット、地上から工事状況が良く見えた。

日本と関係が深いインド人

Radhabinod Pal(ラダビノード・パール)

極東軍事裁判における11人の判事の1人。唯一、日本側の無罪を主張した。

ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)

  要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

チャンドラ・ボーズ Chandre Bose

日本軍とともにインパール作戦を戦ったインド国民軍の英雄、インド独立に貢献した。台湾での飛行機事故で亡くなり、杉並区連光寺に埋葬されている。

 

埋葬先: 連光寺 東京都杉並区和田3-30-20

カルカッタの地下鉄

1990年代初頭には地下鉄が開通していた。

 

Source:UrbanRail.net & Microsoft

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   著者: 浜渦 哲雄 (著)

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