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DDR ドイツ民主共和国

陸の孤島、西ベルリン(西ドイツ)を目指した。ベルリンは20万人とも言われるソ連兵が駐留、情報だけで緊張感があった。西ベルリンから徒歩で国境を越え、東ベルリンに滞在したのは1985年8月8日(木)だ。

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東ベルリンへの道のり−ハノーファー経由

1985年、夏、ナホトカ航路シベリア鉄道経由でモスクワへ、そして、レニングラードを経てフィンランドへ抜けた。その後、西ヨーロッパにしばらく滞在した後 ハノーファーから鉄道で西ベルリンへ向った。ソ連ではかなり緊張したので足が容易には向かなかったが、当初の目的どおり東ヨーロッパの玄関として陸の孤島(周囲は東ドイツ)西ベルリンを目指した。ハノーバーからベルリンへは東ドイツを通過するためInter Rail Passは使えない、よって別途購入した。メモでは、1985年8月7日、Hanover発(10:15)、West Berlin着(13:45)、鉄道料金39DM(2等片道)とある。

トランジットビザ 1985年8月7日のスタンプ

国境通過ー西ドイツから東ドイツへ、そして西ドイツへ

国境(Marienboth)に差しかかる前に先ず西ドイツの、そして東ドイツの入国管理官が乗り込んできてパスポート コントロールがあった。西ドイツからの出国はパスポートを見せただけだったが、東ドイツ側ではここでトランジットビザ (上の画像)を取るため少し時間がかかった。が、それ以外はスムーズにことが運んだ。 西ドイツのパスポートコントロールの後、車窓から国境(柵)が見えた。さしずめ、映画の大脱走のような緩やかな地形の農地が続いていた。但し、西ドイツ側と東ドイツ側ではその農地の管理が一目で見てわかるほど はっきりと差がついていた。それは、西ドイツ側は非常に整然としていたが東ドイツ側は何か雑然としていたからだ。
パスポートのスタンプから1985年8月7日に東ドイツに入国、8月10日に出国している。8月7日は西ドイツから東ドイツを通過し、西ドイツ(西ベルリン)に入国したことになる。8月10日、西ベルリンのZoo駅(西ベルリン)からワルシャワ行き夜行列車に乗った。西ドイツ(西ベルリン)−東ドイツ(東ベルリン)−ポーランドと移動したことになる。

二つのドイツ(東西ドイツ)、二つのベルリン(東西ベルリン)

なぜベルリンはこのようなややこしい状況になっているのか、それは、ドイツ帝国が第2次大戦で敗れた後、連合国(米英仏露)による陣取り合戦の舞台となったからである。米英仏の民主主義グループは、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)を支持、他方、共産主義の雄、ソ連は東ドイツ(ドイツ民主共和国)を支持、よって国土が二分された。実際には米英仏がかなり押し戻したようだ、最初にベルリンに入ったのは赤軍なので。

ドイツ帝国の首都であったベルリンも同様に二分され、東西ベルリンが出来上がった。結果、西ベルリンは地理的に東ドイツの中にある西ドイツの離れ小島のような状況となった。よって、西ベルリンへ行くためには、東ドイツを横切らなくてはならなかった。

チェックポイントチャーリー経由、東ベルリン(東ドイツ)へ

西ドイツに滞在中、東ヨーロッパ旅行の計画を立てた。日本を出発する前にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアのビザを取得しておいたので行程を決めればよかった。列車のスケジュールはトーマスクックの時刻表に概ね掲載されていたので、長時間にらめっこした結果、ハノーファーから東西ベルリン、 ワルシャワ、クラコフ、プラハと移動することにした。ハンガリーはウィーンから近いので、再度出直すことにした。その東ヨーロッパの玄関都市、西ベルリンへはハノーファーから1985年8月7日に到着した。

西ベルリンから東ベルリンへは、地下鉄、徒歩で行くことが出来るがこれもガイドブック頼り、チェックポイントチャーリーという国境から東ベルリンへ行った。このキュートな国境の通称(だと思う)は、英米仏の管理下にあった西ベルリン故のことと想像している。他にも東西ベルリンの国境がいくつかあったが、外国人はここから入国することが通常だった。

ここに掲載しているガイドや地図は、東ベルリンで入手した記憶、なかなか立派な案内で中心市街地を把握し歩き回るのに役に立った。


強制両替と24時間滞在ビザ

東ベルリンへ入国するのには、1日ビザと強制両替があった。当時、東欧諸国では旅行者一日当たりの最低両替額(支出額)が定められていた。これは外貨獲得の一環であったようだ。

東ドイツへの入国に際して、DM30と引き換えに24時間観光ビザを取得した。内訳は一日観光ビザDM5、そして、強制両替DM25(西ドイツマルクから東ドイツマルクへ、交換レートは1:1)だった。東ベルリンの場合25西ドイツマルク が強制両替最低額だった。

東ベルリンではなかったが、出国時に両替証書を税関で提示し、 必要最低日数分に不足しているとその場で換金することを迫られると聞いていた。実際、換金させられたとしても、出国するので何の意味もなく(西側では両替不可能か、5分の1程度の換金率だった)、また持ち出し禁止などといって結局放棄せざるを得ないという話を聞いていた。このときの東欧諸国旅行では、最低かそれ以下しか両替していなかったが、出国する時には特にチェックは入らなかった。

ブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデン、そしてトラバン(Trabant)

チェックポイントチャーリーから地図を見ながら歩き始めた。先ず向ったのはブランデンブルグ門とそこから伸びる ハイネの詩に謳われるウンター・デン・リンデン(菩提樹の並木道)。前日、ティアガルテン(西ベルリン)から ブランデンブルグ門をみていた。門の表と裏だが、緊張感は全く違っていた。

ここで興味を惹かれたのは、青い煙をもくもくと吐きながら2サイクルエンジン(青い排ガス撒き散らしているので見れば直ぐわかった)の音を発しながら街中を走りまわるキュートな自動車トラバン(Trabant)だった。(写真は借り物)


ベルリンの壁

東西ベルリンを分断していた壁、今はもうない。はじめてこの壁の事を聞いたときは不思議に思ったものだ。 一つの都市の中に壁の国境が存在している。そして、そう簡単には行き来が出来ない。東と西では国が違うのだ。

 

西ベルリンは、東ドイツの国の中にある西ドイツの孤島のようなもの。したがって周りを壁が囲んでいた。 第二世界大戦後の占領政策によって生まれたとはいえ、妥協の産物という印象を拭えない。

 

東ベルリン側から壁を見たが、そこには殺風景の壁が延々と立ちはだかったままだった。また、 近づくと危険とガイドブックに説明があった。この壁はいつか観た映画「戦場のピアニスト」のなかで、 ワルシャワのユダヤ人ゲットーを囲む壁のようだった。ベルリンではどちらが囲われているかといえば、 それは西ベルリンなのだが。

 

西ベルリン側の壁は、落書きだらけであった。そして、所々に十字架が立てられて日付と名前が刻まれていた。 これは、東ベルリンから壁を越えて亡命しようとした人が、逃げ切れず国境警備隊に射殺されたということを後で知った。

東ベルリン一日観光ビザ

一日観光ビザDM5、そして、その引き換えに強制両替としてDM25(西ドイツマルクから東ドイツマルク)を東ドイツマルクへ交換し滞在ビザを入手した。東ドイツマルクと 西ドイツマルクの交換レートは1:1だった。チェックポイントチャリーから東ベルリンへ、 クランクのように折れ曲がった国境を歩いて渡ると、そこはなんだか子供の頃、若しくは、 古い映画の中で見たような光景から殺伐たる印象を受けた。道行く人々の服装や走っている車(トラバンなど)、 無機質に立てられた高層アパート群など、壁を隔てただけで全く光景が違ってしまった。 しかし、所々にベルリンの歴史的な建物が残っている。良く眼を凝らすと建物の物陰に鍋を逆さまにしたような ヘルメットを被った兵隊がいた。

ブランデンブルグ門、ドイツ語の授業で暗記したハイネの詩に出てくるウンターデンリンデン、テレビ塔のある広場など 徒歩で散策した。25マルクは東ベルリンでは結構な大金で簡単な食事では消費しきれない。一人ということもあって レストランで食事というのは抵抗があり、西ベルリンでよく食べていたソーセージとパン、それにザウワークラウトを 摘んだ。

西ベルリンへ戻るときに東ベルリン側で西ドイツマルクへ両替が出来るのだが、うっかり忘れて西ベルリンへ出てしまった。 チェックポイントチャリーの前にある西ベルリンの銀行窓口へ行き交換レートを確認すると、なんと1:5なのである。 つまり東ドイツマルクは西ドイツマルクの5分の1の価値ということで、残った20東ドイツマルクは交換しないで 持ち帰った。これは今でも保管している。

動物園駅からワルシャワへ

西ベルリンで入手していた東欧諸国向け国際学生証(28歳以下の若者を対象とした割引切符購入のための証明書)を利用して ワルシャワ行き切符を購入した。窓口で列車番号、ワルシャワまで片道、2等と言えば買えた。これをドイツ語で言えるように事前に勉強しておいた。これは上手くいった。料金はワルシャワでDM40だった。

 

列車は夜行列車で、Zoo駅から21:01発だった。この駅は西ベルリンにありながら東ドイツ国鉄が運営しているので 素っ気がないったらありゃしない。同じドイツ人なのに政治が違うだけでこうも違うものかと思ったものだ。

 

ワルシャ行き列車に行き先を間違えないように乗り込んだ。いくつかの車両はワルシャワまでだが、それ以外はモスクワ行きと書いてあった。コンパートメントは、8人掛け、西側は6人掛けだったからやや窮屈だった。乗客も多く足を投げ出すことはできなかった。

ベルリン読本

春江一也著”プラハの春”、”ベルリンの秋”をお薦めします。作者は冷戦構造当時東ベルリンへ外交官 として赴任していた経験があると思われる。フィクションだけど、当時の東ベルリンを知る情報が丁寧に説明されている。

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