Aug. 1985 西ベルリン動物園駅Zooよりワルシャワ中央駅に着く
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Aug.1985、夜行列車でワルシャワからクラコフへ早朝着く
早朝、クラコフ駅に着き、バスの時間まで待つ
1985年8月のある日、ワルシャワから夜行列車で早朝クラコフに着いた。距離が中途半端なので午前4時か5時くらいの薄明るい時間帯の到着であった。前日は、プラハ行きの切符を買うのに半日以上ワルシャワ中央駅で費やし、やっとこの先の旅程の目途がたち、ポーランド滞在の目的のひとつであるクラコフヘ足を伸ばすことができた。
よく眠れなかったことも手伝って朝からお腹の具合が悪く駅のトイレに駆け込み、オバちゃんから紙をもらって鍵が掛からないトイレへはいる。掃除がきちっとされていてそれほど悪くはないと思いながら、ことが済んで水を流そうと試みたがどうも壊れているらしい。オバちゃんに身振り手振りで説明したら、このへんは要領を得ていてバケツに水を汲んで流してくれた。どうも、ここのトイレは全て手動水洗のようだった。
それから荷物を駅の荷物預かりへ持っていく。窓口の初老の人がどこから来たかとしきりに尋ねるので、日本からだと答えると何かうれしそうに笑顔を返してくれた。どうも日露戦争でロシアを破ったことへの賛美らしい。
バスでオシビエンチウム(アウシュビッツ)へ
貴重品をディパック入れ替え、それから駅前から出ているオシビエンチウム行きバス時間を確認、30分ほど待ち時間があり、辺りを散策しその後ベンチで待つことにする。
出発の時間になりイカルス製の中型バスに乗り込む。車窓は走り出してすぐに農村風景に変わった。道路沿いに植えられたマロニエの緑がとても初々しく感じ、辻のマリア像がカトリックの国を想像させた。夜行列車でついたせいもあり、バスの心地よい揺れも手伝ってウトウトとしながらの車窓だった。
アウシュビッツに着いたあと帰りのバスの時間を確認して強制収容所跡へ入った。ビルケナウという収容所跡が直ぐ近くにあるがここへは時間の関係で足を伸ばさなかった。カメラを向けるのがはばかられるような展示ばかりで圧倒された。
クラコフへ戻る
オシビエンチウムから同じルートでクラコフに戻り、朝預けた荷物を受け取りその後宿を探した。駅のインフォメーションで紹介された駅前の安ホテル(下記)に泊まることし、荷物を入れてクラコフの旧市街へ足を運んだ。駅前で人が集まっているので覗いてみると”8の字”のような形をしたパンを売っていた(一番上の写真)。私もひとつ買ってみた。岩塩がまぶしてありそのままでは塩が強すぎて食べられなかったので塩の結晶を落として食べた。
1985年に泊まったクラコフのホテル:
Wawel-tourist
Hotel Pod Zlota Kotwica
ul.Szpitalna 30
31-154 Krakow
tel. 22-10-44
(ホテルの封筒より)
クラコフ旧市街散策
泊まったホテル? | 旧市街への路 |
クラコフ旧市街で、闇両替
当時クラコフを訪れる外国人は多くはなかったと思う。特にアジア人では日本人だけだったのだろう。珍しがられ視線をよく感じた。
市街を歩いていると男が”チェンジダラー、チェンジダラー”といってついてくる。レートは?1ドルxxxズローチ、公定レートの5倍じゃないかと驚くが、No Thnak youといって別れる。が、何度も闇両替商に出会い、同じことを質問すると大体同じレートの返事が返ってくる。彼らの風貌は全くその辺を歩いている人と変わらないが、ポケットにやたらズローチ札を持っていた。何人目かの誘いのとき、換えてみたい衝動に駆られて実行する。
男は周囲の様子を確認し建物の陰に私を誘い、ものすごい早さでズローチ札を数え、私のドルと同時に換えてくれた。そして何事もなかったようにすーっと人混みに消えた。
東ベルリンで会った日本人のカップルにワルシャワとここクラコフでも会った。私と同じような行程で旅行していたようだ。向こうもちょっと驚いていたが、東ベルリン−ワルシャワ−クラコフ−ワルシャワ−プラハというコースが同じだったようだ。
東ベルリンからワルシャワへ−自家製赤ワインの美味しさを知る
東ベルリンからの鉄道で一緒だったフランスに住んでいるポーランド人とフランス人のカップルにここで再会、彼らはプライベートルームに泊まると言っていた。一泊10ドル。それとここではジーンズが安いといってリーバイスを買っていた。
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