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イルクーツク停車(1985年7月4日、木) at Irkutsk

Irkutsk | Listvyanka

ハバロフスクからイルクーツク(モスクワより5153km)までは2泊3日を要した。車窓は森林地帯、ステップ地帯、地形の変化もありゆっくりと西へ進んだ。

シベリア鉄道での旅程で中間に近いここイルクーツクで一泊することにしていた。それは、世界で最も深い湖であるバイカル湖を見ようと考えたからだ。シベリア鉄道のイルクーツク到着予定時刻は20時15分であったが実際には21時少し前、やや遅れて到着した。もしかしたらハバロフスクで私が戻れなく1時間ほど遅らせたことが影響しているのかもしれない。しかしこの程度は9000キロの間に何とか調整される時間なのであろうと善意的に解釈した。

Siberian Railway


イルクーツク駅到着1985年7月4日(木)

Angara River 4July1985

ロシア号がイルクーツク駅に到着したのが21時近いというのにまだ午後遅い時間のような日差しだった。駅からインツーリストのバスでアンガラ河畔に建つインツーリストホテルへ移動、このホテルがソ連に入国して初めてのホテル宿泊となった。637号室へチェックインし荷物をおき窓の外を見るとやっと夕暮れどきの様相を呈していた。このまま部屋にいるのもどうかと思いアンガラ河畔を散歩し黄昏時を楽しんだ。

翌朝は、バイカル湖見学、リストヴャンカという観光村へバスで行った。

(写真はイルクーツク駅に到着直前のシベリア鉄道からアンガラ川を望む)


アンガラ川の夕暮れ1985年7月4日(木)

ホテルの前がアンガラ川、バイカル湖より唯一流れ出る河川、対岸がイルクーツク駅だ。駅を出て橋を渡りすぐに右折しホテルに着いたのでどういう位置関係かは理解していた。イルクーツク市街地を把握したかったが地図らしきものはこのホテルにはなく、手持ちのガイドブックにもなかった。

ホテル正面から川岸に出たら添乗員のマリナがいた。少し話をしていたが蚊の勢いが凄い、なにせ短パンだったので早めに退散した。彼女によればシベリアの自然は偉大だという説明だった。二人で写真を撮っているのでカメラを川岸においてセルフタイマーで撮ったのであろう。

(インツーリストホテル前のアンガラ河畔にて)

Angara River 4July1985 Irkutsk with Marina 4 July1985

イルクーツク周辺

地図を持っていなかったので位置関係がよくわからなかった。バイカル湖はイルクーツクから南に位置する。

Irkutsk

 


イルクーツク・インツーリストホテル Intourist Hotel Irkutsk

ここで初めてソ連のホテルに泊った。インツーリストホテルはアンガラ川河畔に建つ12階建てのホテル(アレクサンドロフスキー・スクヴェル)、 チェックインはレセプションでするのだが、部屋の鍵はそれぞれのフロアーに鍵係り(ジェジュールナヤ)がいてそこで受け取る。鍵係りはおばちゃんが多く暇つぶしに編物をしていた。鍵を受け取りに行くと日本から何か土産物はないかという。このときはボールペンを強請られた、が挨拶と思って予備はないと返答しておいた。これがソ連の現実なのだろう。

1979年2月17日

Intourist Hotel Irkutsk

44, Gagarin Boulevard Irkutsk, 664055, Russia

http://www.intourist.com/Irkutsk-Hotel.aspx?id=43566&currency=USD

Irkutsk


イルクーツク中心街

Irkutsk

翌日のロストヴャンカから戻りが遅くなり、市内を散策せずそのままシベリア鉄道に乗車した。移動のバスで市内は通過しているが、やはり自分の足で歩いてみないと印象に残らない。

最近、ソ連時代のイルクーツク中心街地図を見つけた。それほど大きな街ではなさそうだ。ここにも日本人墓地があると聞いていたが確認ができなかった。

インツーリストホテル・エレベータ事件"(1985年7月5日、金曜日)

翌日の7月5日、はバイカル湖畔へ行くツアーに申し込んでいた。朝食を済ませ荷物を取りに部屋へ行きエレベーターに乗った。

何人か既に乗っていて、ドアが閉まりエレベーターが下降し始めて、ガツンという音とともに途中で止まってしまった。下ではインツーリストの添乗員が待っているのだが。軍服を着たロシア人が電話をしたが何も音沙汰がない。既に外ではエレベーターが故障していることはわかっている様子、それにしても時間がかかっていた。

同乗の人たちは黙ってずっと待っていた。30-40分も待っただろうか、やっとエレベーターが少し動いて開放された。あまり驚かないところを見るとよくあることなのかと、これまたソ連の現実に驚く。

インツーリストの添乗員が心配そうにロビーで待っていた。理由を話すと”まあ”だって。この旅行でこのとき既に2回も心配をかけていた。予定していたツアーはモスパックといったがそれにはこの件で間に合わなかったのでインツーリスト(サービスビューロー)のツアーに参加した。

この事故は不可抗力であったが、ソ連へ入国してから「私のハバロフスク事件」に次いで「私のイルクーツク・エレベータ事件」で事故が2回目となり、この先が思いやられた。

バイカル湖と湖畔の村Listvyanka(1985年7月5日、金曜日)

世界で最も深い湖(1,620m)、336の大小河川が流れ込み、アンガラ川が唯一の流れ出る河川。そして途中エニセイ川と合流し北極海へ注ぐ。”バイカル”とはタタール語で”豊かな湖”という意味だそうだ。 日本との関係では江戸時代、漂流民大黒屋光太夫一行は、サンクトペテルブルグへ行く途中しばらくここに滞在している。また、1918年シベリアに出兵した日本軍はイルクーツクまで進軍した。

さて、予定にどおり1985年7月5日、早朝エレベーターに閉じ込められるというアクシデントがあったものの、バイカル湖畔の村、Listvyankaへインツーリストのバスで行った。イルクーツクからバスに揺られて小一時間、70qの距離、横浜港から一緒だった旅行者の大半がこのツアーに参加していた。

地図の中央下にUlan Ude駅が見えるがこの駅でロシア号は北京発ウランバードル経由モスクワ行き列車と連結し、ここから一列車としてモスクワを目指す。

Baikal Lake


イルクーツク、シベリア鉄道リンク