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横浜大桟橋からのナホトカ航路シベリア鉄道の旅

昭和60年、1985年6月29日(土)11時、横浜港大桟橋からソ連極東海運(FESCO)のハバロフスク号でソ連邦極東の日本海沿岸のナホトカ港へ向けて出航した。

 このナホトカ航路での出航はこれから陸路でユーラシア大陸を横断し、ソ連邦のモスクワ、キエフ、レニングラードを経てフィンランドへ出国、再度、ベルリンから東ヨーロッパを周り、その後、西ヨーロッパとモロッコへ行くヨーロッパまでの大旅行の往路だったが、その時はこんなに長期になるとは考えていなかった。結果としてそうなったのだ。

何を思いこのナホトカ航路でヨーロッパまで行くことにしたのか、確かにソ連邦は大変興味う深かったが、情報が少なく制度的に旅費が嵩む、しかしながら、先人たちの書物を読むと皆さんこのルートでヨーロッパまで行っている、安かったからだろうが、既に当時は航空機のでのヨーロッパ往復のが安かったが、どうしてもソ連邦をこの目で見て観たかったことは間違いない。後付けで言えば自分探しの旅だったのかなとも思う。その起点が横浜港大桟橋となった。 

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出国手続き(横浜大桟橋) ハバロフスク号船上から

ナホトカ航路(1985年6月29日(土)から7月1日(月))

横浜港大桟橋からハバロフスク号でナホトカへ出航(1985年6月29日11時)

その日は梅雨の半ばでどんよりと曇った日だった。大学時代の友人に当時住んでいた両国(墨田区緑)のアパートから横浜大桟橋まで車で送ってもらった。シルクセンターの交差点から大桟橋に近づくとこれから乗り込むだろう停泊している船が見えた。大きくもなく小さくもなくこんなものかと思った。これがハバロフスク号だった。  

 出国手続きのためゲートへいくと日本人のほかに外国人も多数いた。ほとんどが若者旅行者だ。ここは成田の出国ゲートのような混み方ではなくぱらぱらと2カ所のゲートに吸い込まれて行く、並んでも数人だった。ゲートの前で荷物を開けている人、見送りの人と話している人などゆったりとした時間の流れだった。

1985年6月29日11時、銅鑼が鳴り始めいよいよ出航の時が来た。甲板に出て送ってもらった友人を探しに行った。映画で見た出航のように既にカラフルな紙テープが投げられていて、私の友人も何本か投げてくれた。ボーボーという汽笛とともにハバロフスク号はゆっくりと大桟橋を離れ出航した。 しばらく甲板から出航したばかりの大桟橋や山下公園方向を眺めていた。

 船室の住人は、フランス人2、日本人2人であった。フランス人は暁星学園のラテン語と歴史の教師でこれからパリへ帰省するのだという。日本人乗客は美大の講師でこれからパリへ留学するところだった。

上:出航時、テープを投げてくれた友人

右:出航後、甲板より山下公園方向を望む

右下:出航前、ハバロフスク号の前にて

 

 

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ハバロフスク号の船内

ナホトカまでの行程は2泊3日、飛行機で行けば2時間程度の距離なのだろうがゆっくりゆっくりナホトカへ進んだ。梅雨時の曇り空の下、横浜大桟橋からハバロフスク号は出航した。東京湾を出た船は進路を北に取り本州と平行して進み、津軽海峡を越え、日本海を横断してナホトカへ至るルートだ。2日目、津軽海峡に差し掛かる頃には夜の帳が下り、外をみるとふわふわと浮かんでいるような漁り火がみえた。

船室は最低クラスの5等を予約したのだが、空いていたことから5等から4等へのアップグレードされた。船室は5等でも4等でも4人部屋でたいして変わらないことが後からわかった。ただ、船底からの距離が1層分遠のいたらしい。そうするとエンジン音が若干和らぐ。船は上に行くほど高級なのだとそのとき知った。船の甲板には小さいけどプールもあった。

ハバロフスク号諸元:

ミハイル・カリーニンクラスの船舶で、乗客333名、乗員97名、総排水量トンが4772トン、8,300馬力のディーゼルエンジン、最高速度17ノット、全長122.15m、全幅15.96m、1961年に西ドイツで建造された旅客船である。 

船舶諸元: 4,772GT LOA 122.15m LBP 110.01m B 15.96m Dght 5.23m D1 MAN 8,300hp Service 17kt Crew 97 Passengers: 333 Built in Mathias Thesen, West Germany in 1961 Flag: U.S.S.R. One of MIKHAIL KALININ class ships Broken up in China in 1989 

ハバロフスク号 4等船室 モスクワへ里帰りする子供たち

ハバロフスク号の乗客

1985年6月29日に横浜を出航したハバロフスク号の乗客は、モスクワへ里帰りするロシア人親子、 ハンガリー人外交官家族、米国へ帰国する英語教師夫婦、フランスへ帰省するラテン語教師、パリへ留学する美大講師、日本人観光客など様々だった。 ロシア人が客として乗船していたかどうかはっきりしないが、勿論ソ連人(ロシア人)インツーリストの通訳が乗り込んでいた。彼の名はセルゲイといった。この仕事で何度も日本へ来ているようだった。ウラジオストク極東大学で日本語・日本文化学科卒業しており、 日本語がかなり達者でソ連での生活の違い等をいろいろと聞かせてくれた。

船内の過ごし方

船内の生活は非常に快適であった。3食昼寝付き、時間がゆっくりと流れだ。船旅とはこういうのんびりしたものか本当に感心した。

甲板へ出て海を眺めるか、会話をするか、本を読むかである。こうした単調な時間の過ごし方の中では食事の時間が楽しみの一つだった。

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ソ連の御もてなし、スープは味噌汁 甲板で時を過ごす

食事は時間になると船内放送があり、レストランまで出かけて行った。アナウンスは日本語でも行なわれた。ロシア人の冗談を交えた流暢な日本語に常に感動した。食事はロシア人シェフが作っているのだろうか、日本食に似たメニューもあったがそれは日本食からは程遠かった、基本的にはロシア料理と擬似日本食が出された。しかし、それもまた旅の楽しみと思った。

左上の写真はある日の食事、スープカップに入った味噌汁、ご飯の上に梅干が乗った日の丸ライスにイワシと思われる小魚2尾に海苔が添えてあった。メインの肉料理はこの後出され、記憶に残っているのはビーフストロガノフやステーキ等だ。これらをフォークとナイフで食べた。

船内での食事風景

船内のレストランで毎回食事をとった。テーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、事前に食事がテーブルに用意されていた。席は特に指定はなかったと思うが定かではない、そして、順番に座った。ソ連人(ロシア人)のウエイトレス、ウエイターが給仕をした。

テーブルに着く人は最初こそ始めてだが、何度も食事をしているうちに概ね同じメンバーが席に着くようになった。日本人と結婚し子供2人と里帰りするロシア人の母子は私がよく座っていた大テーブルに座っていた。日本語を話せることもあり、モスクワのこと等を聞いた。

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船内の食事風景 モスクワへ里帰りする家族

ロシア民謡とダンス

単調な船旅にはアトラクションが用意されていた。ハバロフスク号ではもちろんロシア民謡とダンスだった。小学生か中学生のときに聞いたことのあるロシア民謡にあわせてロシア民族衣装をまとった男女が踊る様子は楽しいものだった。特に、ダンスより金髪のロシア人女性からは目が離れなかった。このような若いロシア人女性が乗っているとは思ってもみず、船内を散策していてもお目にかかったことはなかった。

 


津軽海峡の漁火、出航2日目の夜半(1985年6月30日)

出航2日目の夜、津軽海峡を通過したときに漁り火が窓から見えた。写らないと思いながらシャッターを押してみた。当然、ぶれているが光だけは捉えたようだ。

目を凝らして漁火を見ていると陸地がシルエットになっているのが見えてきた。北海道側だろう。

 


凪の日本海とナホトカ港、出航3日目(1985年7月1日)

2日目の夜に津軽海峡を通過しそのまま真西に進んだ。そして、3日目のハバロフスク号は日本海の真っ只中にいた。甲板へ出るとどんよりとした天気の中日光浴を楽しんでいる乗客が数人いた程度、甲板にはプールもあったがこの気温では入る勇気はなかった。日本海は、静かだった、そして、一面の凪だった。

午後、遠くに海岸線が見えてきた。陸地に近づいていき細長い湾の中へと進みハバロフスク号はゆっくりとナホトカ港へ入港した。この湾の名はアメリカ湾という。当時は冷戦時代だったのに。

 アメリカ湾へ入ったころからインツーリストの添乗員から注意事項があった。ここからは写真の撮影は禁止だという。ソ連へ入国するということを確認したかのようだった。


横浜港・ナホトカ港リンク