ナホトカ航路シベリア鉄道の旅行準備
旅行準備で最も時間を要したのは旅程を確定することとビザを取得することだった。ソ連は全ての旅程予約が確定したうえでバウチャーが発行され(支払いも同時)、そのバウチャーを添付し査証が発給された。つまり、予約が確定しないとビザが発給されないシステムだった。
ソ連と東欧のビザ取得、そして、ソ連国内の旅程の確定に概ね1ヶ月程度は費やしたと思う。残念ながらそれらのバウチャーやビザ(別紙、パスポートには押印されなかった。)は全て入国したとき、出国するときにインツーリストやイミグレーションに提出してしまった(取られてしまった)ので残っていない。コピーをとっておかなかったことを悔やむ。
旅行代理店の選定とソ連国内の旅行手配
このような事情から初めてソ連を旅行する人が全て自前で手続きをするのは最初から無理とわかっていたので、ソ連を専門にしている旅行社を2−3社にあたって、その中で最も安く親切そうな日ソ旅行社(今はロシア旅行社となっている)という旅行代理店へ相談し、旅程の手配をお願いした。なお、この旅行社、料金も一番安かった。 他に、日ソツーリストビューロー、ワイトラベルがあった。日ソツーリストビューローは日ソ旅行社よりも料金が高く、ワイトラベルは情報が限定的だった。
■当時の住所:
日ソ旅行社
東京都千代田区千駄ヶ谷1−20パークアヴベニュービル202
■現在の日ソ旅行社
ロシア旅行社
東京都千代田区五番町5-1 第8田中ビル5F
Tel.03-3238-9101
旅行計画と予約
日ソ旅行社へお願いするにあたって'こちらで旅程案を作成し、予約を入れてもらった。当初、バルト3国へも行く計画だったが、ホテルの予約が入らずその分をキエフへ振り替えた。値段的にはほとんど変わらなかった。
余裕のある旅行ではなかったのでホテルは安いのにしてもらおうと考えたが外国人は選択肢がほとんどないので予約が入るホテルを旅行社にお任せした。モスクワではモスクワオリンピックのときに建設されたコスモスホテル、他の都市はインツーリストホテルだった。 ホテルのベッドに寝られるのはこの旅行の中では贅沢だった。後は列車の中という結構な強行軍だったからだ。
ソ連国内の旅行費用概算
資料が残っていないので記憶だけだが21万円程度を日ソ旅行社へ支払ったと思う。その内訳は以下の通り。
船便:ナホトカ航路(横浜−ナホトカ片道)5等船室(約4.5万円)
鉄道:ナホトカ−モスクワ(極東・シベリア鉄道、2等寝台)、モスクワ−キエフ片道(2等寝台)、モスクワ−レニングラード片道(2等寝台)、レニングラードからフィンランド国境まで(2等寝台)(約8.5万円)
航空便:キエフ−モスクワ片道(約1万円)
ホテル代:イルクーツク・インツーリスト1泊、モスクワ・コスモスホテル2泊、キエフ・インツーリスト1泊、レニングラード・インツーリスト1泊(モスクワのコスモスホテルが約1.4万円くらいで、他は8千円程度だったと思う。)(5泊で約5.2万円)
送迎:鉄道駅−ホテル間、空港−ホテル間。(数千円)
観光:バイカル湖ツアー(数千円)
旅行代理店手数料、テレックス代:(数千円)
合計で約21万円也。
■補足
最近、当時の預金通帳ができた、丁度、その支払い履歴が記帳されていたので正確な支払額がわかった。1985年5月30日に前払い金として50,000円を日ソ旅行社へ支払い、残金として6月21日に172,485円を支払っている。よって、合計222,485円となり、これがナホトカ航路を含むソ連国内の旅行費用の合計となる。(2011年7月)
ビザの申請取得
ソ連ビザ
ソ連の旅程予約が確認されバウチャーを添付して、狸穴のソ連大使館領事部へビザの申請を行なった。ソ連の場合はビザ申請までに旅程を決め予約確認を取得しなければならなかったので時間がかかったが、ビザそのものの申請取得は円滑だった、都合、申請と受理で2回狸穴の領事部まで足を運んだ。
ソ連のビザは、パスポートにスタンプが押されるのではなく、別紙(旅程が書かれていた)で発行された。このコピーを取らなかったことは今でも悔やまれる、というのは出国時に取られてしまったからだ。
東欧諸国ビザ
ソ連以外の東欧諸国のビザについては、ソ連ビザ取得後、順次申請し、チェコスロバキア(広尾)、ポーランド(目黒区三田)、ハンガリー(代官山)の3カ国を取得した。広尾、代官山、目黒区三田など申請及び受取にN君のバイクを借りて飛び回った。東欧諸国は通常どおり、パスポートにビザのスタンプが押された。(大使館の場所は当時)
ブルガリア、ルーマニアは時間切れで手続きができなかった。ユーゴスラビアについては、日本人は当時からビザが免除されていたが、それすら知らず仕舞いだった。西ベルリンへ行く途中に入国する東ドイツは、列車の中でトランジットビザが取得できることを確認していた。
取得した査証(1985年6月)
取得したチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーのビザは以下の通り、ビザ代はチェコスロバキアが3800円んと記憶、ハンガリーが2300円、ポーランドは15米ドル(3800円相当)であった。
ユーラシア大陸横断片道切符
ソ連国内は、バウチャーが全てでこれを各地のインツーリストに見せ、予約と照合してホテルのバウチャーや航空券、鉄道チケットを受け取ることとなる。とにかく、初めての国、初めての共産主義国であり、緊張感があった。
こんな状況だったが駆けずり回って旅行の手配をし1985年6月29日に横浜港から出航できることになった。手元に残っていないがこれで、フィンランドまでの片道切符を手に入れたことになった。後の旅程は、西側のため現地で対応するということにした。
青年用IDカード、ユースホステル会員カード等の取得
ヨーロッパでは20代後半までの青年には多くの優遇措置がありその証としてYouth International Educational Excange Card、同様に学生であれば東側でも通用するInternational Student Identity Cardがあった。前者は 国際学生交流財団が発行し(はっきり記憶していないが日本ユースホステル協会が代行していたのだろうか、webで検索しても見当たらない。)、後者は大学生協で発行していた。当時はもう学生ではなかったが、西ベルリンで申請したら取得することができた。また、日本ユースホステル協会の会員になることにより、International Youth Hostel Federation Cardとして世界中のユースホステルで使えたので市ヶ谷まで出かけて取得した。
ソ連以遠の旅程
ソ連国内は完全に固定スケジュールであり逸脱することは許されていなかったので予定通り、7月15日にフィンランドへ出国した。その後は、ラハチの友人へ会いに行き、頼まれていたフジのオートマチックカメラを手渡した。ラハチ滞在中に、その後の予定を少しずつ決めて行った。ビザを取得しておいたポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーへ行くが日程は決めておらず、西ドイツのハノーファーからベルリンを目指すこと、ハンガリーへはウィーン経由で行くこと等のルートの検討した、東欧諸国の査証は滞在期間が限られていたが、事前にスケジュールを決める必要はなかった。それ以降は、東ヨーロッパの後で考えることにしていた。
交通機関は、鉄道を利用する前提であるが、その時はInterrail Passがどこで入手できるかわからない状況だった。(ユーレイルパスは割高だったので利用しない前提で予算を組んでいた。)
出発した1985年6月の為替レート 1米国ドル=248円、1ルーブルは300円?
当時の交換レートは米ドルとUSSRルーブルが1:1だったと思うが私のメモには1ルーブル380円とのメモが残っている、計算間違いかもしれない。円ドルレートは1ドル=248円であった。
日付 | レート | ソース | |
---|---|---|---|
対Roubleレートその1 | 06/29/1985 | ¥248.40 | web |
対Roubleレートその2 | 1985年6月 | 380Yen | 私のメモ |
両替はハバロフスク号に乗船した直後かナホトカで両替をしているはずだがメモがない。メモには時々円換算しているのでその数値から逆算すると1ルーブル300円となる。
シベリア鉄道での食事にルーブルを使った。1ルーブルの100分の1の通貨単位がカペイカ。モスクワの公共交通は、均一料金で5カペイカだった。1ルーブルの価値は高かった印象だ。食堂車の一食が1ルーブルプラスだったので。
対米国ドルでは出発した1985年6月は1米ドル250円付近で推移していたが、8月にプラザ合意があり、帰国した10月には1米ドル215円付近まで高くなっていた。http://gaitametore.com/daily/usdjpy/1985
一眼レフカメラを購入 Canon AE-1P、フィルムはKodachrome
この旅行に際して一眼レフカメラを購入した。これまでは借り物ばかりであったので、この機会に自前を調達した。新品など買える余裕なく、素人が新品に手を出す理由もなかったので中古屋を何軒か見て周り、新橋のカメラ屋でCanon AE-1P+35-75mm f3.5-4.5レンズ付きを購入した。
フィルムは、Kodachrome64を使おうと決めていた。このフィルムは発色がよく保存が効くと先輩諸兄よりアドバイスを受けていたからだ。しかし、このレンズではやや不相応ということが後でわかったが時既に遅し、でも、晴れた日中は上手く撮れた。
USSRについて
ソ連の正式名称は、ソビエト社会主義共和国連邦といった。ロシア語では以下の通り、CCCPの略称もオリンピックなどのユニフォームでよく見かけた。英語では、USSR(Union of Soviet Socialist Republics)。ロシア語では以下のように表記します。
Союз Советских Социалистических Республик
1989年、東欧諸国の体制が崩壊し、1991年末、エリツィンのクーデターで共産主義体制と連邦が崩壊、ソ連はロシアとソ連を構成していた共和国が分離独立した。
Former USSR 旧ソヴィエト連邦基礎情報
国の標語: ロシア語: Пролетарии всех стран, соединяйтесь! (ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!) |
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公用語 | ロシア語 | ||
首都 | モスクワ | ||
面積 - 総計 - 水面積率 |
解体前も世界第1位 22,402,200km2 約0.5% |
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人口 - 総計(1991年7月) - 人口密度 |
解体前は世界第3位 293,047,571人 13.08人/km2 |
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成立 - 宣言 - 承認 |
ロシア革命 1922年12月30日 1924年2月1日 |
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ソヴィエト連邦解体 | 1991年12月26日 | ||
通貨 | ルーブル(為替レート) | ||
時間帯 | UTC +3〜+11 | ||
国歌 | インターナショナル (1922-1944) ソビエト連邦国歌(1944-1991) |
出典:wikipedia
ソ連へ旅立った1980年代の出来事
1980年代は、いろんなことがあった。世界の構造を大きく変える大きな波のうねりの中にいたような時代だったす。ソ連とこのときの旅行に関係していた主要な出来事は次のようであった。
1980年 大平正芳首相が衆参同日選挙戦の中、急死。鈴木善幸首相就任。
1980年 モスクワオリンピックボイコット
1980年に開催されたモスクワオリンピックに対して、1979年12月におきたソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議する形で、米国カーター大統領がモスクワオリンピックボイコットを提唱、西側陣営もこれに同調した。日本は5月24日、JOC総会で不参加を決定。
1980年5月4日 ユーゴスラビア終身大統領ヨシップ・ブロズ・チトー、スロベニアのリュブリャナで病死
1980年9月22日 イラン・イラク戦争勃発
イランイラク戦争勃発。1988年まで続く。
1981年 米国、レーガン大統領就任
1982年 中曽根首相就任
1982年11月10日 ブレジネフ書記長死去
ブレジネフ・ソ連書記長死去(11.12,後任にアンドロポフ政治局員)
1983年9月1日 大韓航空機撃墜事件
民間航空機である大韓航空機KAL-007便が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために撃墜された。撃墜されたのは、大韓航空のボーイング747でニューヨークからソウルに向かうKAL-007便であった。ソ連の領空を侵犯したあと、領空から出て30秒後に、サハリンの近海に墜落した。
1984年、米国、レーガン大統領再選
1984年2月9日 アンドロポフ書記長死去
アンドロポフ・ソ連書記長死去(2.13,後任にチェルネンコ政治局員)
1985年3月11日、チェルネンコ書記長死去、ゴルバチョフ書記長就任
チェルネンコ書記長死去(3月10日)によりゴルバチョフ政治局員、書記長就任。
1985年8月12日、日航123便、御巣鷹山へ墜落
羽田発大阪行き日航123便が御巣鷹山へ墜落、524名の命を奪う。
この事故は私の誕生日に起きたので忘れられない。
1985年9月22日、プラザ合意
行き過ぎたドル是正と米国の貿易赤字解消を目的にNYで開かれたG5で参加国の通貨をドルに対して10−15%切り上げる協調介入が合意された。出発した6月29日の為替レートが1ドル248円、会議前240円、会議終了、市場が開けて232円、10月1日には216円になっている。
1986年4月26日チェリノブイリ原発事故
ソ連邦ウクライナ共和国チェリノブイリ原子力発電所でメルトダウンが発生した。
1986年、米ソ首脳会談。アイスランドのレイキャビクでレーガン大統領とゴルバチョフ書記長が会談
1987年、国鉄が分割・民営化、JRグループが発足
1987年、竹下登内閣発足
1988年、イランイラク戦争停戦
1988年、青函トンネル、瀬戸大橋開通
1989年初頭、昭和天皇、病気のため崩御
1989年、横浜ベイブリッジ開通
1989年、ベルリンの壁崩壊
最近のシベリア鉄道乗車本、ロシアの旅行費用など
シベリア鉄道乗車記
世界一周!大陸横断鉄道の旅 (PHP新書)、櫻井寛、第3章、1993年9月乗車
シベリア鉄道―洋の東西を結んだ一世紀 (ユーラシア・ブックレット)
シベリア横断鉄道の旅 (海外旅行選書)、Eric Newby