赤い矢(レッドアロー)号でモスクワからレニングラードへ (1985年7月13-14日)

Leningrad | Petrodvorets

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レニングラード都市圏 レニングラード市  

 モスクワ・レニングラード駅からソ連の特急列車レッドアロー(赤い矢)号でレニングラードを目指した。これまた宿泊先のコスモスホテルまでインツーリストがボルガを迎えによこしたのでレニングラード駅がモスクワのどこにあるのかまったくわからなかった。後でわかったが、レニングラード駅はシベリア鉄道の発着駅であるヤロスラブリ駅に隣接していた。コムソモルスカヤ地下鉄駅の上だ。

ホテルを出るときにマリーナに見送られた。彼女は翌日にはアエロフロートでウラジオストクへ戻るという、これが最後になるのだろうかと別れを惜しんだが、黒いボルガが先を急がせた。別れ際、コスモスホテルのベリョースカ(ドルショップ)で買った木製の装飾品を入れるような箱をプレゼントした。でも、ソ連の人なのにソ連の民芸品をもらっても嬉しくはないだろう、気持ちだけでも良かったのかもしれない。

ボルガがレニングラード駅に着いた。この列車、寝台特急であり日本で事前に全行程を予約したとおりだ、外国人が乗れる最低料金の2等車輌だ。ソ連の寝台車はどの列車もそうだが、天井の高いシベリア鉄道と基本的に何も変わることのない寝台が上下に2段づつある4人部屋だった。このコンパートメントの乗客はマリ共和国出身の留学生とロシア人の親子連れだったことを覚えている。 この赤い矢号は、モスクワを夜出発し、まだ日が高かったので19頃だったのだろうか、翌朝にレニングラード着というスケジュールだった。既にモスクワ郊外の風景は幾度となく見ていたが、再度車窓から陽が長い夏の草原を眺めた。

Leningrad Intourist Hotel

早朝、7月13日、赤い矢号はレニングラードのモスクワ駅に着き、インツーリストの車でネヴァ川河畔のインツーリストホテルにチェックインした。早朝着、翌日の夜、夜行列車で移動というスケジュールだったので丸二日間のみの滞在となった。

ひとえにソ連はホテル代が嵩み、ここも9,000円程度だったであろうか、長居をしたくても出来なかったのが現実だった。

現在は、Saint Pertersburg Hotelと言う名称になっている。

http://www.hotel-spb.ru/hotel-spb.nsf/main/en

白夜とエカツェリーナのレニングラード Leningrad (1985年7月14日)

Leningrad-14July1985ソ連旅行最後の都市、横浜を1985年6月29日に出発、7月1日にナホトカ港に到着、同日ソ連へ入国した。レニングラードに到着したのは7月13日なので、ソ連入国から13日目となり、7月14日が最後の滞在だ。予算の都合上、1泊だけとなったが、夜行、夜行と繋いでいるので賞味2日間のレニングラード滞在となった。レニングラードの先はフィンランドのラハチまで行く予定にしていた。

ピョートル2世のレニングラード、ソ連のベニスとも称されるネバ川の河口に位置する橋の多い街、ロシア芸術と文化の中心でもある。現在、名称がザンクト・ペテルブルグと革命前の名前に戻っている。

早朝、レニングラードのモスクワ駅に到着、またインツーリストの手配でボルガだったかラダだったか車が迎えに来ていた。自分の足でホテルまで行きたかったのだが、ソ連はそれを外国人観光客に許していなかったようだ。ネバ川の畔に建つインツーリストホテルへチェックイン、これまでのソ連のホテルとなんら変わるものではないスタンダードなソ連ホテルだったが、部屋は絶景かな、ペトロパブロフスク要塞側で視界が開けていた。日露戦争時、バルチック艦隊として日本海海戦に参加した巡洋艦オーロラが係留されていた。

限られた2日のスケジュールは悩ましい。二日、フルにあるので初日はレニングラード市内、二日目はレニングラード郊外にある夏の宮殿、ペトロドヴォレツの半日観光ツアーに参加することにした。

レニングラード散策 Exploring Leningrad (1985年7月13日)

Leningrad-13July1985早朝、レニングラードに着き、そのままネバ河畔にあるインツーリストホテルにチェックインした後、ホテルのインツーリストデスクに半日市内観光ツアーの広告が出ていたので参加した。6ドルだったか8ドルだっとと思う。しかし、バスに乗ったらやたらと睡魔に襲われてどこをどう回ったのかよく覚えていない。ペトロパブロフスク要塞はホテルの窓からも見えたのでこれは覚えている。もう一つ有名なロシア正教会に立ち寄ったが・・・。  半日ツアーだったので2時頃にはホテルに戻ってきた。それから路線バスに飛び乗って自分の足でレニングラード散策に出かけた。これもどこをどう移動したのか、どう歩いたのかとにかく賑わいのある場所を目指して歩いていった。一応地図上ではどの辺りにいるのかは把握していた。というのも、その日の夜にバレエ鑑賞を申し込んでいたので出発の時間までにはホテルに戻らなければならなかったからだ。

「白鳥の湖」バレエ鑑賞(1985年7月13日)

バレエは日本でも観たことはなかったが、レニングラードと言えば、バレエというイメージでバレエ初鑑賞を申し込んだ。インツーリストホテルにあるインツーリストの窓口で市内ツアー他、コンサートやバレエのチケットが買えた。レニングラード国立バレエだと思っていたが建物の位置からこちらではなく、キーロフ劇場(マリインスキー劇場)であったと思う。チケットは6米ドル、ホテル往復の交通費が含まれていた。演目は「白鳥の湖」と記憶、見始めてら

http://www.mariinsky.ru/en/

ネヴァ河畔散策 River side of the Neva (1985年7月13日)

整列した樹木が印象的だったネヴァ河畔、ホテルの対岸、巡洋艦オーロラが係留されている近くだと思う、ホテルの対岸に位置するので近くはない、徒歩で行ったと思う。とにかく歩き回った。

Leningrad-14July1985 Leningrad-14July1985
   

白夜のレニングラード The Midnight Sun (1985年7月13日)

Leningrad-13July1985

バレエ鑑賞の後、徒歩でホテルまで戻った。かなりの距離があったと思うが道順は比較的簡単だった。

午前零時を過ぎてもまだ外は薄明るかった。インツーリストホテルの窓からネバ川のはるか先にぼんやりと浮かぶ白夜の太陽が印象てきだった。この時間、街は静まり返り、ネバ川に写る白夜の輝きが不思議な感じだった。

現在のweb-cam映像。

ペトロドヴォレツ、夏の宮殿 Petrodvolets Peterhof (1985年7月14日)

Leningrad-Petrodvolets-14July1985レニングラードへ着いた翌日、7月14日、郊外のペトロドヴォレツに宮殿があり足を伸ばした。フランス式の庭園はフィンランド湾へ向かってビスタが通っており、幾何学的な庭園のデザインは目を見張った。フランス式の典型なのだが。また、不定期に水が噴き出す噴水が小道に仕掛けられており、路面は濡れているのだがそれを知らないで通り過ぎようとすると急に水が噴出し観光客を楽しませていた。>>Petrodvolets

http://peterhofmuseum.ru/

ソ連出国、フィンランドへ Departing for Finland (1985年7月14日)

午後、ペトロドヴォレツからレニングラードへ戻り、ホテルで荷物をまとめてチェックアウトした。この日がソ連最後の日となった。二日間という限られたレニングラードの滞在であり、あっという間に時間が過ぎていった。インツーリストホテルの近くにあるフィンランド駅から夜行列車で出国した。ヘルシンキ行きの国際列車には「シベリウス」という名が付いていた。

2週間を越えるソ連の旅がここで終わり、まったくの表面的ではあったがソ連を身を持って体験できたことは光栄だった。そして、次のステージに移った。

ソ連出国、フィンランド入国 (1985年7月15日)

1985年7月15日早朝、ソ連を出国しフィンランドへ入国した。ソ連出国は別紙のビザとバウチャーを出国時に召し上げられてしまったのでパスポートにはソ連滞在の痕跡が残っていない。ソ連からフィンランドへ入国した記録は左の通りだ。

国境を越える頃には乗客が身を乗り出して外を眺めていた。誰かが国境を通過したことを告げると歓声が沸きあがった。

列車はヘルシンキ行きであったが、その手前のラハチという小都市で列車を降り友人に会いに行った。

資料

レニングラードリンク